第26回 「南方熊楠の生涯」
~「南方熊楠の生涯」~
開催日時: 2013年2月1日(金) 午後6時~10時
開催場所:アーキテクトカフェ青山
東京都港区南青山2-27-18 青山エムズタワー2F
【開催のご挨拶 会長 安田豊】
【基調講演】 ~「南方熊楠の生涯」~ 南方熊楠顕彰会常任理事 田村義也様
岩手県出身ながら、田辺市にて南方熊楠の資料整理に携わり十数年の目録編纂を経て南方熊楠の研究第一人者となられた田村先生に、興味深い話を伺いました。
南方の生きた時代は、全ての制度が大きく変化した時代でした。1867年生まれ、1941年没で、徳川の終わりから明治国家の終焉の直前までを生きた南方の同年代には正岡子規、夏目漱石、秋山真之、山田武太郎等の、明治日本の文化を形作ったたくさんいます。
南方の実家は商家、のち造り酒屋となるのを弟が継ぎます。本人は和歌山中学を卒業の後上京、回り道の多い学者人生を送ることになります。東大予備門を退学して帰郷、13年におよぶ米英滞在を経て帰国しますが、その後は大正11年に1回東京に滞在しただけで、人生のほとんどを和歌山県を出ることなく過ごしました。
博識で高い文献調査能力を持つ、傑出した人物ではありましたが、人間的な癖もおそらく強かった人で、距離を置いて交際をしていた人々からだけ評価されていたという面があります。人文系の研究とともに隠花植物および顕花植物の採集を幅広く行い、アメリカでも那智でも高等植物の採集もしています。実技をどこで学んだかは不明ですが、基本を踏まえた正しい標本作りを行っていたそうです。
アメリカへは、1886(明治19)年に出航、翌年サンフランシスコ着。ミシガン州とフロリダ州に滞在します。その当時の写真で、和装にブーツという出で立ちのものがあり、日本人南方を意識した明治の若者らしい野心的な姿でした。
1892(明治25)年にはロンドンへ。1893(明治26)年、科学雑誌『ネイチャー』に初めての論文「極東の星座」を寄稿。ロンドンでの彼は、東洋研究の世界での情報提供者(インフォーマント)という立ち位置でした。日本と東洋の文化について知識と調査能力があり、英語で説明することができたため、高く評価されたのです。
1897年、ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、意気投合します。
1900年の帰国後、実家に居場所を得られず、那智で3年間を過ごすことになりました。昼は山野で生物採集、夜は古典文学の読書という雌伏の時期が、その後の活躍に大きく貢献したと考えられています。
明治40年代、神社合祀政策に対する反対運動を起こします。これは、自然保護運動の先がけでもあり、今日では世界遺産『熊野古道』として保全されているいくつかの重要な神社と神社林を守ることに大きく寄与しました。
1926(大正15)年、『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』の三冊の単行本を刊行。それまでは、彼の文章は学術誌読者の目にしか触れませんでした。
1929(昭和4)年、昭和天皇の紀南行幸に際し田辺湾上のお召し艦において進講、粘菌標本を天皇に献上しました。進講の予定は25分間でしたが、おそらく南方はとてもその時間に収まらない量の話題を用意しており、御進講は天皇の指示で延長されました。
一般には認知度が低く、まとまった業績もなく、地元の和歌山県でも認められなかったにもかかわらず、昭和天皇から興味を持たれていたという奇異な存在、紀州の巨人南方熊楠の一片を垣間見ることが出来ました。(紀友会幹事 堀川 成康)
【和歌山自慢コーナー和歌山ゆかりの企画・イベントのお知らせ】
【新入会員のご紹介】 岡崎 滋さま、小泉 達則さま、谷澤 佳彦さま、向井 成一郎さま、山本 高士さま、 (五十音順)
【乾杯の音頭】紀友会 副会長 上田富三
【懇親会の模様
【閉会のご挨拶】紀友会 幹事 山本充彦
(第26回例会レポート 広報担当:中川貴照)